このときは そのときに応じた
こういった『ふつう』なことがある
この場では その場に応じた
さっきとは別の『ふつう』がある
この目的では その目的に沿った
さらに違った『ふつう』がある
だから
その『ふつう』に
したがって振る舞うんだよ
ああ、なるほどなあ
よくわかる
それはいいと思うよ
そのとき(Time)
その場(Place)
そこでの目的(Object)
その『ふつう』からはずれたら
自分が困っちゃうもんな
自分にとっても まわりにとっても
都合の悪いことになるもんな
そういうふうに
なににたいしての『ふつう』なのかが
はっきりしていたら
『ふつう』の中身もよくわかるよな
だから『ふつう』のように
振る舞うことも『ふつうに』できるし
そのとき その場
そこでの目的においては
自分もまわりも
そう困らないということになる
秩序を保つとか
秩序が保たれるってのは
そういうことなんだろうな
◇◇◇
ところで
自分にしっくりと馴染んでいる
なんらかの感覚も
『ふつう』と言わないか?
確かにそうだな
そういう
自分の『ふつう』があるね
意図的にでも 無意識にでも
どっちでもいいけど
自分の『ふつう』を出してみたら…
誰かから
「それ『ヘン』じゃない?」
って言われた
その誰かは、さらに
「『ふつう』そうじゃないよ?」
って言った
自分の『ふつう』が『ヘン』
って言われたら
あれ? そうなの?
なんで?
ってなるだろうなあ
どこの誰から
どういう 口調や コトバづかいや
顔つきや しぐさで
言われたのかによっても
違ってくるだろうけども
たいがいは
こころ穏やかではないだろう
自分のこの『ふつう』は
『ふつう』じゃないらしい
自分のこの『ふつう』は
どうもまずいらしいぞ
自分は『ふつう』じゃないのか?
だったら自分はオカシイのか?
「それ『ヘン』じゃない?」とか
「『ふつう』そうじゃないよ?」とか
言われてしまった
この『ふつう』を持っている
今の自分はダメなのか?
じゃあ 自分の
この『ふつう』やめとこう
この『ふつう』引っ込めとこう
そうしたら『ヘン』じゃ
なくなるだろ………
◇◇◇
あっ
あれ?
「それ『ヘン』じゃない?」
って言ったのは誰?
それ そう言った人にとって
『ヘン』だってことじゃないか?
「『ふつう』そうじゃないよ?」
って言ったのは誰?
それ そう言った人の中にある
『ふつう』だってことじゃないか?
自分の中の『ふつう』は
そう言った人の中の『ふつう』とは
どうも違うらしいと
ただ、そういうことじゃないか?
その人の中の『ふつう』って
自分の中の『ふつう』よりも
そんなに大切かい?
自分の中の『ふつう』を
くつがえさないといけなくなるほど
その人の中の『ふつう』は
重要なのかい?
その人の言う『ふつう』に
どうしても
沿わないといけないかい?
そうやって
自分の中の『ふつう』を
くつがえすほうがいいと思うかい?
くつがえしたほうが
幸せかもしれないと感じるかい?
そういうことだって
時にはあると思うよ
あるなんらかの
実体のはっきりした『ふつう』に
ならう したがう みならう
それを 自分の中の『ふつう』に足す
自分の中のこれまでの『ふつう』を
それに入れ替える
そういうふうに
自分の中の『ふつう』を
敢えて自覚的に疑ってかかるとか
危機感を持つとか 問題と考えるとか
だったら すごくいいことだと思うんだ
◇◇◇
したがって
『ヘン』って
なにが どう 『ヘン』なんだい?
『ふつう』って
どういうことを指して
『ふつう』って感じているんだい?
はっきり言えるかい?
はっきりわかるかい?
そういう、違和感を問いなおすこと
そもそも、違和感を大切にすること
そうできるだけの
自分の中にある
アンテナやセンサー
感受性というやつを大切にして
自分で すばやく するどく
つかみとって
考えかたや行動を
自分で選び取っていくことが
自分の『ふつう』に自信をもてて
自分の振る舞いや
自分の存在自体を
認められるようになっていって
自分で自分を
幸せに感じることに
つながっていくんじゃないかい?
そうなれば
自分で選び取ったことが
いい結果に結びつかなかったとしても
後悔は小さくなるのではないかい?
そう感じることが
『ふつう』になってくると
違和感がおもしろくなってきて
『ヘン』だとか
「『ふつう』じゃない」って
言われることすらも
おもしろくなってくるってもんだな
さて
どの『ふつう』を選びとっていくのが
幸せに感じるだろうか?