人は人であって
それ以外の生きものではない。
猫は猫であって
それ以外の生きものではない。
猫みたいに自由気ままで
気まぐれな人がいたとして、
「なんかあの人は猫みたいな人やわ」
とか
「あいつはホンマに猫やわ」
などと思うことはあっても、
その人をほんとうに猫だと見なして
猫と同じ食べものをあげたり
猫に話しかけるのと
まったく同じように話しかけたり、
猫を扱うのとまるっきり同じように
その人を扱うなんてことはない。
アリストテレスによる《同一性の法則》
あるものはそれ自体であり、
それ以外のものではない。
誰かが望んだとしても、
それを別のものに変えることはできない。
◇
人は、物理的なものについては…
今これを見ているスマホとか、
もしくはタブレットかパソコンかも。
だとか、かたわらに置いてある本とか、
温かい飲み物が入っているカップとか。
それは『それそのもの』であって
『それ以外のもの』ではない
と簡単に認めることができる。
ところが、感情的なことについては、
自分が感じたその気持ちは
そう感じているとおりのものであって
それ以外の気持ちではない
と素直に認めることは、
それほど簡単ではなかったりする。
辛い気持ちを感じているときなんかは
特にそう。
たとえば
悲しみとか、怒りとか、恐れとか
不安とか、不満とか、妬みとかの
辛さを引き起こすネガティブ感情を、
自分が感じている、と
すぐに素直に認めることは
自尊心に影響しかねない。
自尊心…もう少しかんたんに
『プライド』と呼ぶことにしてみよう。
この『プライド』は
どこからきているのだろうか?
◇
たとえば、わたしたちはなにげなく
ある役割を果たすことによって
他人や社会から自分を認められる
という前提のもとで、
仕事したり生活したりしている。
自分がある役割を果たしていることを
他人や社会から充分認められないと
ネガティブな感情が湧く。
それで、プライドが傷つきもする。
すると、さしあたっての自衛策として
プライドを守ろうとしてしまう。
とりあえず意地で
ネガティブ感情を認めないように
するわけだ。
つまり、自分の中に
ネガティブ感情が存在しているのに
そのネガティブ感情があるのを認めない
ということをしてしまう。
自分のネガティブ感情は、
ネガティブ感情ではない
あっ。なんか違う。
さっきの
アリストテレスによる《同一性の法則》。
それと違う。
あるものはそれ自体であり、
それ以外のものではない。
誰かが望んだとしても、
それを別のものに変えることはできない。
◇
さっきの↑
《同一性の法則》の『それ』の部分を
『自分のネガティブ感情』に
置き換えてみたらどうなる?
自分のネガティブ感情はネガティブ感情であり、
ネガティブ感情以外のものではない。
誰かが望んだとしても、
自分のネガティブ感情を
別の感情に変えることはできない。
いま、そのときの自分の感情は
いま、自分が感じている気持ち
そのものであって、
その気持ち以外のなにかではない。
そう、自分で認めること。
どのような感情であれ、
自分の中に湧いてしまっている感情を
そのとおりのものと認めること。
他人や社会から充分認められようが
認められなかろうが、
自分がある役割を果たしている現実を
自分で尊重するという
ただそれだけのこと、なのに…
法則的にはめちゃくちゃシンプルなのに
なんでこんなに認めづらいんだ。
◇
人はひとりだけでは生きられない
社会的な生きものであって、
自分もまた、
他人や社会に何らかの役割や期待を求めて
その役割や期待を果たして、認められて…
ということを延々と続けて生きている。
他人や社会から求められている役割や
期待に応えることは必要だ。
それがなかったら自分だって困る。
だからこそ、自分の為したものことが、
他人や社会から求められた役割や期待に
合致していたり、
そうなっていることが
お互いに共有できればいいのだけども、
合致しなかったり共有できなかったり
なんてことだって、相当にある。
悲しいかな
必ずしも相通じるとは限らない。
それでも、
精神的に、同一性の法則を保つ。
あるものはそれ自体であり、
それ以外のものではない
誰かが望んだとしても、それを
別のものに変えることはできない。
まったくもって、楽な話じゃない。
◇
それでも、
いま湧いたネガティブ感情を尊重する。
感情が湧いてしまっている現実を認める。
いま感じていることを、
感じているままに表に出す。
相手に、誰かに、伝える。
そうすることが、
他人や社会から求められた役割や期待に
必ずしも合致しなかったり
共有できない場合があるとしたら…
それを安心してできる
『自分の居場所』が必要だ。
- 自分ひとりで過ごせる場所、時間。
- 普段求められている役割とは
無関係な場所、友人、知人、ペット… - 自分の気持ちをそのまま語れる場所。
日記、手紙、SNS…
手段はいろいろあるけれども、
自分の気持ちに正直になれる
『居場所』を確保して、
そこで、自分の気持ちをそのまま
安心して出せるというのが
どれだけ大切なことだろうか。
◇
他人の気持ちを認めるには、
まず、自分の気持ちを認めることが
できることだ、とも言う。
さて、自分の気持ちに
いまよりももうちょっと正直になるために
できそうなことはなんだろうか。
もっともっと、自分の気持ちに
正直になることができたら、
自分はどうなれるだろうか。
ひとまずゆっくりと呼吸して、
「自分はどうありたい」
「自分はどうしたい」
というような、先々への思いにすら
とらわれないで、
「いま、ここ」の自分の感情や、
感覚そのものに集中して、観察して…
そうすれば、
いろんな感情を自由に持つことを
自分に許すことができるだろう…
さあ、やってみようか。
◇◇◇
『なんのきの木かげ』では、
あなたのお話に寄り添うだけではなく、
ケアをして癒やすだけでもなく、
あなたが、あなた自身の気持ちを
大切にできる『自分の居場所』を
一緒に見つけます。
「いま、ここ」の自分の感情や、
感覚そのものに集中して、観察して、
いろんな感情を自由に持つことができれば
それだけでも随分と楽になれます。
あなたのお気持ち。
どうぞ、話しにお越しください。